中洲小時代の川上茂
(2008年9月23日)
今 井 清 水
(諏訪市こころざしの会会員)
◆川上茂と早教育
師範新卒として赴任した川上茂の中洲小時代は、大正五~九年の五年間ですが、千代子にとっては、分校から転入した五年生の九月以降、川上の教育を受けた一年七ヶ月の小学校生活と、諏訪高女三年生までの時期に該当します。
この五年間に彼は、(1)二つの教科研究レポートを発表し、(2)理科委員を務めたほか、(3)諏訪児童学会の会員としても活動したと推測されます。
- 第一のレポートは「学齢期児童の数概念」で、小学一年生の入学当初二ヶ月間の実態調査を報告したものです。第二のレポートは、「理科教授の理論及実際」で、子どもの持つ理科分野の疑問についての実態調査経験を紹介しています。どちらも大正九年、信濃教育会の会誌『信濃教育』に発表されました。
- 第二のレポートは、彼が諏訪教育会理科細目研究委員を務めていたときのものです。彼は、同会の「理科細目」(教師用指導計画)や「理科筆記帳」(児童用学習帳)の編纂に関わっています。
- 大正八年、全県的な児童研究会と密接に関連して生れた諏訪児童学会は、研究範囲を「児童の身体・精神の全部を含む、教育に直接関係あるもの」として、会員を募っていました。彼の研究スタイルからみて、二つのレポートは、会員としての活動の中で触発された部分が大きいと思われます。
レポートからもわかるとおり、彼は理数系の教師であり、研究姿勢は実態調査にもとづく実践的なものでした。理数を軽視したといわれる白樺教師とは、対照的です。元県教育史編集主任の中村一雄さんは、「論文の大部分は、小学校教科教育法の裏づけとなる基礎理論を追究した発達心理学的な研究調査の報告である」と述べ、①発達心理学を援用した子ども個々の実態調査から、②教え方の基礎理論を導き出そうとした、と指摘しています。
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中洲小時代の川上茂の教育スタイルについては、〈英才教育〉〈二重教育〉〈個性的な教育〉〈特殊授業〉〈特別教育〉などと表現されていますが、〈早教育〉という言葉に集約できます。今風に言えば〈選抜・エリート教育〉です。
川上茂の早教育への持続した意欲・こだわりを示唆する二つの事例があります。
第一は、中洲小以後に発表したレポートです。松本女子師範付属小へ転じた二年目(大正十一年)に、続編「再び学齢期児童の数概念」を発表。翌年、「児童の語彙」を長期連載(六回)しています。注目したいのは、「数概念」も「語彙」も、早教育の最重要テーマであったという事実です。
早教育に大きな影響を与えたカール・ヴィッチ(一九世紀のドイツ人法学者)は、著書『カール・ヴィッチの教育』の中で、次の点を強調しています。――就学前から豊富な知識を獲得させるためには、語彙を増やし、文字を早く覚えさせること、数概念を養成し、四則計算を習得させることだ――と。
早教育の文献のほとんどは、新教育運動が日本に紹介された明治末~大正四年にかけて翻訳され、六年には『早期教育と天才』(木村久一)が出版されています。“早教育花盛り”の中で師範生活を送った川上茂が、これらの文献を読んだ可能性は大きいと思われます。
彼は〈川上茂流早教育〉の試みにこだわり、「数概念」と「語彙」への関心を、中洲小以後も持ち続けていたと考えられます。
第二は、川上茂の子息が、「母から聞いた話」として――父は何を考えたのか教職を離れ、京都大学に籍をおいて、…電気工学の勉強をしていたことがあるそうです――と書き残しているエピソードです。千代子たちを卒業させた後の、大正七年か八年のことです。この「事件」の底流には、〈川上茂流早教育〉に対する教師仲間の冷たい視線や、「女子にばかりひいきしている」と騒ぐ村人の、川上排斥の動きがあり、地元新聞の投書記事が、油に火を注ぎました。復職を許してくれた田中一造校長を、彼は「恩人」と語っています。
〈川上茂流早教育〉で使用された教材は、荘子、カント、ヘーゲル、大隈重信(当時は総理辞任直後)の『小国民読本』や、ルソーの『ざんげ録』、教科書より高級な国語、理科、哲学、倫理学などのプリントでした。
岩波小辞典『教育』は、――その急速な発達が当人の人間的成長にとっていかなる意味をもつかが問題である――と指摘しています。
新村義広さんは、「特殊な差別教育を受けることには、多少の違和感をいだいた」と述べ、
千代子は、後年、背伸びしていた自分を反省し、「若い時代を若く生きたいと考えるようになりました」と手紙に書いています。早教育が本来的に孕む矛盾と、子どもへの違和感・重圧感を読み取ることができます。
◆川上茂と白樺教育
平林たい子の『春のめざめ』には、〈川上茂流早教育〉への痛烈な批判とも取れる叙述があります。――(彼の)教育上の興味は、自分の抱負を担う力のある…生徒の上に集っていった。劣等生たちは、絶対に名指しされて本を読ませられることはなく、ますます劣等生に落ちていた――と。
選ばれなかった「数多い平凡な生徒」たちは、彼の“白樺教育”で救われたのだろうか。 注目したいのは、《川上茂=白樺教師・千代子=白樺の子説》は、『イエローローズ』から始まり、『時代の証言者 伊藤千代子』に引き継がれているという事実です。
『時代の証言者』では、川上茂は「白樺派自由主義教育の熱心な教師」と位置づけられ、根拠の一つとして、国定教科書にとらわれずに独自のガリ版教材などを使ったことが挙げられています。
この根拠に関連して、村山英治さんは『大草原の夢』で――画一主義の教育を排する教師は、白樺派だけではなく…広範にいた。ひからびた修身の教科書は全く使わないとか、補助教材を使うことは、常識になっていた――と述べています。
信州教育界における、中洲小時代の川上茂の座標について、みることにします。
当時、「教師の人間的な覚醒」をめざした信州の教師グループのうち、最大グループは人格主義を標榜する東西南北会で、西田哲学の信濃哲学会、鍛錬道を唱える島木赤彦のアララギ派とともに、信濃教育会のリーダーシップをにぎっていました。聖書研究会や信州白樺派などは少数派でした。川上茂は、〈田中一造→藤森省吾→島木赤彦〉とつながる、反白樺派人脈に位置づく教師でした。
藤森省吾は、〈教育による寒村の更生〉を課題に農村教育に打ち込んだ指導者です。川上の一年後輩の小口伊乙さんは、「川上君は藤森省吾を師とし、その教育は、川上君の教育熱意を燃え上がらせた」と記しています。
また、「子どもの個性と自我の発見」を目指した信州の自由教育には、①白樺教育、②県下教科(児童)研究会、③師範付属小での研究学級、④自由画教育運動、などの潮流がありました。川上茂は、②③に関心を持ち、〈青木誠四郎→杉崎瑢〉につながる教師でした。
青木誠四郎は、川上の研究をサポートし、後々まで影響を与えた二年先輩の児童心理学者です。杉崎瑢は、川上の研究の間接的指導者で実験心理学者です。『信州の教師像』では――研究の焦点を児童にも向けるべきことを説いて、児童研究会・研究学級を指導し、信州自由教育のために万丈の気炎を吐いた――と評価されています。
良い児童読み物が必要だと感じ、その執筆を島崎藤村に依頼し、『をさなきものに』を世に送り出した赤羽王郎。野外で砂山作り・水遊びをさせながら、いろいろな歌を歌い、詩を作ることを体験させた中谷勲。時間割も作らない自由進度学習。教科書ではなく『ゴッホの生涯』を修身(道徳)学習の教材とした一志茂樹。――このような教育を川上茂も中洲小でおこなったのだろうか。今、私の手元にそれを確認できる資料・情報はありません。
川上茂の『遺稿集』や『信州の教師像』(伊藤朝雄)・「上条茂の人と業績」(『信濃教育』特集)・『長野県教育史』を含め、目を通すことができたおよそ二十点の中に、《川上茂=白樺教師説》を示唆・肯定している文献を見つけることはできませんでした。
松木ムメヨさん・作家となった平林たい子・新村義広さんなど教え子たちの語る回想が、早教育に集中し、〈川上白樺教育〉の具体が話されないのも、頷ける気がします。右手でエリート教育、左手で白樺教育ということが、矛盾なくできたのか疑問が残ります。
川上茂は大正十年、松本女子付属小へ転任しました。異例の抜擢人事です。他郡へ不本意に飛ばされたり、教職を辞したりすることの多かった信州白樺派教師の軌跡とは、大きな違いを見せています。
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千代子について言えば、彼女の諏訪高女四年間は、白樺運動の盛り上がった時期と重なっています。諏訪高女を会場とした柳兼子音楽会・柳宗悦講演&ブレイク展や、上諏訪町での小泉鉄(足尾鉱毒問題)講演会・泰西絵画版画&ロダン展・岸田劉生展など、目白押しでした。千代子は、自由と白樺の風の中で成長し、自分の道を切り拓いていったのだと思います。平林たい子は、『婦人闘士物語』の中で、「女学校へ入ってからは、…千代子さんは白樺派風に変わって行き」と書いています。
川上茂は、「九州紀行」(昭和四年)の中で
「千代子氏が死んでしまった事は惜しいことだ」と記しています。千代子への、あまりにも簡潔な、唯一の言及です。
今井 清水(いまい・きよみ)
◆1936年長野県諏訪市に生まれる
◆信州大学教育学部卒業
◆在職中、諏訪教育郡史編纂委員、『諏訪の近現代史』刊行に参加
◆現在、伊藤千代子こころざしの会会員
◆諏訪市在住 |

伊藤千代子と現代No.4 |