高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史
(2008年9月23日)
野 呂 ア イ
(尚絅学院大学名誉教授)
はじめに
憲法9条をはじめ人権と平和を守る連帯に自分の身をおきながら、いかに次世代へ戦時下の状況を伝え、活動の輪を広め確かにしていくか―こうした課題の中で出会った史実は、治安維持法下で若くしてこころざしを絶たれた乙女たちのことであった。特別に衝撃的だったのは、私の長年の職場であった「尚絅(しょうけい)女学院」(2003年度より尚絅学院)の卒業生たちの存在であった。「伊藤千代子」の名前は聞き知っていたが、高橋とみ子さんについては3年ほど前の「墓前祭および偲ぶ集い」(2005年11月17日)へ参加して以来わかってきたことである。2002年2月に「尚絅女学院100年史」が発行されたが、残念ながらこうした卒業生たちの名前や史実は記載されていない。すでに、治安維持法国賠同盟宮城県本部並びに「伊藤千代子の会」の皆さんによって研究・報告されているところによっても、尚絅女学校同窓生の群像が浮かび上がっている。それらの資料を参考にしながら、尚絅における当時の教育特徴や社会的背景・人的関連などをたどり高橋とみ子さんを追悼したい。
高橋とみ子の尚絅在学証明
2006年の夏に学籍簿の保存確認を学内でしたところ、幸いにも「家政科学籍簿(自大正12年3月 至昭和14年3月)尚絅女学院専攻部(高等科家事科)」の綴りの中から見出すことができた。戸籍名は「高橋とみ」(明治四十二年十一月二十五日生)、住所・原籍「仙台市東二番丁二十九番地 士族戸主」、職業「会社員」、父(保証人)高橋勇吉二女、入学前の学歴「宮城県第二高等女学校卒業」、入学年月日「昭和二年四月」、卒業年月日「昭和五年三月二十二日」、操行「優」、家事関係科目は八〇点以上、修身・聖書、国語・漢文、哲学、経済学、社会学等も八〇点以上、体育と音楽が七〇点前後、3年間の平均成績は七八から八〇点を示したが、席次は中の下というところである。幸いに、昭和5年卒業生の集合写真(1930年3月14日)の中に20歳の彼女と出会うことができた。(墓前祭での遺影はこの写真の顔を引き伸ばしたもの。)
尚絅女学校のあゆみと教育の特徴
(1)創設のころ
1890年にアメリカの若い女性宣教師たちによる家塾に始まり、「尚絅女学会」を経て「私立尚絅女学校」は「高等女学校令」に準拠する「各種学校」として、1899年(明治32年)11月24日に宮城県知事の認可を得て設立された。初代校長ミス・A・S・ブゼルの教育は、少数・全寮制度によって「キリスト教の精神」に立つ建学の精神を基に展開された。校名の「尚絅」(中国の「中庸」の第33章の句「衣錦尚絅―身に錦織の着物を着ても絅をくわえて(薄衣の打ち掛けを重ねて)それをつつましくかくす」よりとられた)の意味するように、聖書「ペテロの手紙1」3章3,4節の内容と重ね、裏打ちされてキリスト教精神に基づく教育理念が確立されていった。表面は質素で、内面的に豊かな人柄としての装いを卒業生は一人一人尊ぶようになった。
ブゼルは日本の民情風俗に親しみ、その美しい習慣を強調され、家庭で日本婦道の長所を発揮することを勧めた。教育とは教えることではなく、共に生活をすること。卒業生の感想には、信仰でも、義でも、愛でも、概念として頭に注入するばかりでなく、身をもって当ってみねばならぬ訓練の教育であり、学校は人間をつくる道場であったとある(70年史p.93)。聖書の時間は週に2~3時間、英語は7時間あった。
(2)充実・転換期のころ
10名前後の生徒と数名の教員たちがエラ・オ・パトリック・ホーム(1896年落成)で生活を共にしていたが、1903年に校舎と寄宿舎が増築された。また、1910年に高等女学校として上級の「(高等)専門学校(旧制)入学者無試験検定」資格認定を受け、上級学校への進学の道が広まり、さらに5年制の学則変更をして生徒数も増加した。
2代目の校長としてミス・M・D・ジェッシー(30歳)が1919年から26年まで就任した。ミズリー州立大学で歴史、英文学、生物学、地質学を専攻した他、コロンビア大学では宗教教育学を専攻し、盛岡の幼稚園園長としての5年間の経験がフィールド・ワーク認定によってマスターの学位取得、さらに家政学の単位も修めた、トップレベルの学歴の持ち主であった。彼女の活動ぶりは尚絅女学院が女子の高等教育機関へと発展しようとしていた方向と合致したとみられている。そこで、早速に取組まれたのは上級コースの「高等科」開設の準備であり、翌年1920年(大正9年)に高等科が創設された。1922年(大正11年)までに家政科を廃して家事科へ名称変更すると共に、内容の専門化を図っている。3ヵ年の英文・家事・音楽科、1ヵ年の英文予科・音楽予科と選科(1ヵ年以上)が認可され、当時の女子の高等専門学校への社会的要請に応えるものであり、戦後の短期大学開設の前身に当るものであった。
学校はこの時期に大きなステップに入るが、志願者・入学者が増えて寄宿舎や教室不足をもたらした。ミス・ジェッシーの建築新構想に導かれて、1924年(大正13年)に寄宿舎が建築され、さらにインディアナ州の信者からの寄付を主たる資金として高等科校舎インディアナ・ビルの新築が1929年(昭和4年)に実現したのであった。しかし、計画の段階では友好的だった日米関係は、世界的不況と日米の経済摩擦や満洲事変後の反日感情の高まりなどで急速に悪化していた。ミッション補助金の減額や市内の高等女学校増設に伴う入学者数の減少によって経営危機という苦難の時期に入った。ミス・ジェッシーは募金活動に奔走し、心労で倒れて療養を余儀なくされ、尚絅を一時離れた。1924年6月に川口卯吉が主事に就き、9月からは校長代理を務め、さらに1926年2月に校長に就任した。川口は若い頃に渡米し、1914年シカゴ大学から哲学博士の学位を受けて帰国、バプテスト神学校の教授を勤めていた。
伊藤千代子が在学した1924年から25年、高橋とみ子が在学した1927年から30年の時期は、尚絅にとって多難な時期ではあった。しかし、新寮(第二寄宿舎または広森寮と称した)での生活、新校舎での学びに学内の活気を想像できる。寮の廊下は広く、洋式の部屋にベッドやテーブル付き、一室に10人の他、応接室や食堂の共用室があったようである。朝5時起床、夜9時消灯・就寝、毎朝夕の礼拝、日曜日の教会礼拝と学校教会の生活に、千代子の場合は、進学の目的を持った受験勉強への集中が難しいと考えたのではないだろうか。11月から石切町の松生義勝先生宅へ寄留となったが、そこでは1924年本科卒の斎藤(筒井)なを子が東京女高師を目指していた。キリスト教教育の実践の場としては寮生に期待されるところが多く、信者となる率も寮生が高いとみられた。
(3)校長と教育の特徴
ミス・ブゼルの教育が当時の士族と平民との差別感が残っていた時代に応じた厳格なしつけによるピューリタン的なものであったと卒業生たちの感想がある。第一次世界大戦後は、時代の風潮の中で民主的な、自由な社会人を育てる教育に変わった。ミス・ジェッシーの冒険心に富んだ行動力は、未来を展望した学校運営体制の転換を実現したが、校長としての教育方針の中には「平和教育」が注目される。第一次大戦の「平和条約」締結(1918年)を記念して4年後の記念日(1922年11月11日)当日に、「平和の意義」について全校生徒に語っている。100年史の中(p.203)より次に引用する。
平和という言葉は人の注意をひく美しい言葉であります。その平和の訪れを聞いたとき、世界の人々は歌いつつ行列をして大喜びをしたのです。それは今より四年前、すなわち1918年の今月今日でありました。……私共の平和は、キリストの平和、正義、道徳的の平和であります。猜疑、掠奪、残忍の中の平和ではありません。今日、本当の平和がないのは、我々がキリストの精神を受けていないからであります。……
どこの国も、軍のために莫大な金を使って惜しみませんが、平和のためその百分の一の半分も金を費やしていないのは、本当の平和というものを考えていない証拠であります。平和はたしかに一つの科学であります。しかし、どこの学校でも、また教科書の中でも平和について教えておりません。今後各国は、挙って研究しなければならぬ「新しい科学」なのです。いかにしてこれを学ぶべきか、これは皆が考えて行かねばならぬ問題です。平和の根本問題は兄弟の愛をもって互いに愛する事で、交際も商事もそれに従属して行はれねばならないものであります。……
80年以上前の主張は現在も色褪せていない。今日の尚絅の平和教育に連なっている。
ミス・ジェッシーの後に着任した川口校長の初仕事は、ミッション・ボードが減少し続ける中で学校の財政基盤の構築を国内で進めることであったので、同窓会と父兄会(保護者会)を組織し、修繕費や改築費の寄付金を募った。また、学友会が設立されて活発な活動をしだした。アメリカン・バプテスト婦人伝道協会から財政独立が実現したのは10年後のことであった。2つ目の問題は、1920年代に始まり30年代に至るまで日本の若者たちを巻き込んだ近代思想の高波であったといわれる(R・L・スティブンス「根づいた花」p.58~59)。当時の学生たちの動きを伝えている部分を引用する。
それが尚絅だけを迂回するわけはない。川口校長にはこの問題をきわめて思慮深く取り扱う力量があった。少女たちは新しい社会主義・共産主義思想を満載した新聞をむさぼり読んだ。キャンパスの至る所で活発な討論が持たれた。学生ストライキが他校を大きく揺るがせていた時、川口校長は生徒と教職員の間の交流のパイプを開いておくことに心を配り、彼女たちがキリストの教えと社会主義・共産主義思想を対比検討するのを助けることによって、大きな対決を回避した。生徒たちはたちどころに教会の勇気の欠如に気づき、それは社会体制のあり方への鈍感さからきているのではないか、と問いかけた。彼女たちは次のような問いを発した。「なぜキリスト者は真実のキリスト教の原理を主張して、社会主義と対決しないのでしょう」「神様がどうして世界に貧困をもたらすのですか」「どうすればキリスト教社会を実現できるのでしょう」「社会主義者たちに神の恩寵が与えられるよう、私たちは何をどうすればいいのでしょう」「日本の教会の内部はどうすれば改革できるでしょう」。彼女たちの自由に考えようとする心を、川口校長は決して上から抑えつけることをせず、激動の時期をたくみに導いていった。
ミス・ジェッシーは学校での生き生きとした宗教生活を可能にする上で、学校教会、学生YWCAの力を重視していた。特にミス・ブゼルが1918年に始めたYWCAの尚絅支部組織が1924年までに200人以上の生徒会員を持ち、12人の役員の活動が目覚しいと評価していた。それ故、社会主義イデオロギーに向かう青年の運動が全国的に広がり、その影響を避けられなかったにもかかわらず、尚絅ではYWCAが年々大きくなるにつれ、バプテスマを受けた生徒数も増えていき、「キリストの証し人であり続ける」ことが奨励されたと思われる。
時代的・社会的背景および人的関係の影響
(1)時代・社会の動き
高橋とみ子が在学中の3年間には、初の普通選挙実施で労農党の山本宣冶らが議席獲得、治安維持法の下での3・15弾圧事件、関東軍による張作霖の爆破、治安維持法改悪、特高を全県に配置、日本労働組合全国協議会結成(以上1928年)、日本プロレタリア美術家同盟・作家同盟・演劇同盟の結成、山本宣冶暗殺、4・16事件、そして伊藤千代子24歳で死去(以上1929年)と、国民層の民主的な動きとそれを弾圧・抹殺する支配者層の動きが対決した。高橋とみ子が在学中に社会問題についてどのような関心と学習をしていたのか定かではない。全寮制を原則としていたが、定員増で自宅通学も一部認めていたようなので家庭の事情では寮生でなかったかもしれない。しかし、推測するならば、選択履修科目の中の哲学を2学年で、経済学と社会学を3学年で履修し成績優秀であることから、社会科学への強い関心と意欲が認められよう。「千代子の会」の資料(試論14新版p.26)によれば、1927年3月に全国組織としての女子学生社会科学研究会第1回大会に尚絅女学校から代表が参加している。その代表の佐々木八重子は本科5年生で卒業式前後の参加と思われる。ここで東京女子大社研代表の伊藤千代子(高等科英文予科卒)との接点がみられるが、高橋とみ子は入学前のことであった。八重子は5年後に「満洲」から同窓会にたよりを寄せているが、その後の消息は不明である。なお、大原(旧佐々木)梅子さん(日本プロレタリア演劇同盟仙台支部)は、尚絅女学校高等科(家事科)でとみ子の1年後輩に当たり、家も近くよく交流しあっていたようである。
(2)活動と人柄
同窓会誌「むつみのくさり」第23号の<個人消息>家事科第八回卒業生欄には、「先年来東京方面にいらっしゃいましたが、近頃は今度花京院に開かれましたパリー学院にお通ひでいらっしゃいます。パリー式の洋裁を私共にも御教へ下さいませ。」(昭和7・7・10)の記載がみられる。社会主義運動への関心は画家の次兄辰雄の影響を受けていたとみられるように、東京の美術展へも兄と連れ立ったようだ。
尚絅を卒業後は片倉製糸工場(東八番丁)で女工たちのサークルに洋裁や生け花などを教えながら真実のことを語り、全協労働組合の組織拡大活動に参加、プロレタリア美術家同盟の仙台支部やエスペラント協会にも参加、1934年の逮捕時には共産青年同盟に加盟していたといわれている。在学中も家事関係科目を得意としたことがわかるが、母親と早く死別していたのでこまめに家事をこなし、周囲の人に気を配るやさしい人柄が共に活動をした方々から偲ばれた。エスペラント語で「紅い」を意味するルージュ色の頬をしていたので、ルーちゃんと呼ばれて親しまれていたこと、旭紡績で働いていた仲間(山本すぎさん)を訪ねて、おみやげに便箋や封筒、バター1箱にお金3円を持ってきてくれたこと、帰り際に「みんなが心配しているから体に気をつけてね」という言葉を残して去ったこと、一方で、取調べでは「一言もしゃべらぬ強情な女」であり、「全協支部における最戦闘的女性として重要な役割を占め、旭紡績、片倉製糸仙台工場等を職場として分会の拡充強化に奔命中一斉検挙にかかり、仙台署から10月29日夕刻中新田署に護送留置さるるに至った。──軍職に在る長兄の栄達が自分の連座に依って障碍となるであろうことをおそれ、──護送後15日目の11月21日午前5時、監視の隙をうかがって腰紐を3つに引き裂いて結び合わせ、これで己が頚部を締付け、舌を噛んで凄惨ない死を遂げたのであった。──留置場に一片の遺書もなく散る女闘士“くみ”」(昭和十年三月二日 河北新報)。官憲側の発表にもとづく新聞記事が報じた最期であった。
しかし、実際のところ1934年9月から10月にかけて宮城県下に「9・11事件」と呼ばれる大弾圧が襲い、高橋とみ子は10月20日仙台市の自宅で逮捕され、県内の留置場をたらいまわしにされたのち、1ヶ月後に県北の中新田警察署の裏口から菰包みの死体となって引き出され、家族のもとへ帰されたのである。遺体を引き取りに行った父親は、「全身紫色に腫れあがり、首にひもをかけた跡もなかった。拷問のすえ心臓麻痺を起こしたのだろう」と近親者に漏らしている。戦後になって、当時中新田署の嘱託医であった鈴木ただす医師が同町の佐藤庄七氏へ告白したところによると、「留置人が自殺したので検視してくれとの事だったが、だが自殺したような所見もなく、全身紫色に腫れていて殺されたのだと直感した。しかし、当局の態度にやむなく自殺と判定した。──真実を主張する勇気がなかった」と。とみ子と同日に逮捕され、特高警察の拷問取調べを受けた阿部和子(1938年尚絅女学校専攻部保母科卒)さんは、女性としてとても言葉に言えぬ暴行・拷問を受けたと証言している。治安維持法の傷あとは、正しく「昭和」史の影である。日本を侵略戦争に駆り立てるために、支配者は戦争に反対する者、共産主義者やそれに近い考えの者を弾圧した。とみ子も25歳の誕生日を目前に、いのちを絶たれ、こころざしを絶たれた国家権力の犠牲者であった。
(3)若者たちのこころをどう支えるか―大正デモクラシーの光と影
①バイブル・クラスのこと
ミス・ブゼルには1893年から1919年までの27年にわたって、学外の男子学生・生徒を対象としたバイブル・クラスを指導する仕事があった。日本語を十分習得していない段階で、通訳なしのクラス開始であったが、旧制二高生16,7名が土曜日の夜に集まって行われた。出席するようになった動機はさまざまで、英語を学ぶために、西洋文化への憧れ、友人に誘われるままになどあったが、ブゼルの人格と宗教的情熱に惹きつけられて熱心に聖書を学ぶ者になっていった。すでに、東華学校(同志社姉妹校)在学中にミス・ブゼルの感化を受けて受洗(17歳)していた栗原基は、1895年旧制第二高等学校に入学すると、同級生や同校の基督教青年会の会員をバイブル・クラスへ誘った。
メンバーたちは「学力優秀で、学校でも屈指の人々」(栗原)で、学校内でも影響力をもっていた。小西重直(後に京大総長)、土井亀之助(晩翠の従弟)、吉野作造(後に東大教授・朝日新聞社勤務)、内ヶ崎作三郎(後に早稲田大学教授・衆議院議員)、小山東助(後に関西学院教授・代議士)、島地雷夢(父:仏教界要職、教員)結城豊太郎(後に日銀総裁・大蔵大臣)、渡辺幸次郎(尚絅の主事に在職中病死)、飯塚啓(後に学習院教授・東京動物園長)、守屋孝蔵、深田康算、永井亨、斎藤信策(高山樗牛の弟)ら他が参加して信仰活動を盛り上げ、二高のルネッサンスといわれた。彼らの多くは東大へ進学し、「東京帝国大学基督教青年会」のリーダーや中心的メンバーとして活躍した。また、本郷教会(海老名弾正牧師)の機関誌『新人』や青年会会誌『六合雑誌』誌上への文筆活動を行った。(尚絅女学院100年史p.77~83)
10代半ばから20代初めの若者はこころが揺れる時期である。これまでは宗教団体に関係する者は学業の優秀ならぬものであると目されていたのに、今やそれ以外の者までが、進んで参加したことを驚異の目でみる人がいることをブゼルはみていた。若者たちは世の中の矛盾に気づいたとき発展・展望の哲学をどこに求め、どうするのか? 1つはキリスト教へ関心を寄せて宗教活動に参加していく道がある。若者の中には煩わしい社会から逃避して「マニアに罹っている」者もいる。日露戦争の最中、理性の重荷に耐えかねて東大生は人生問題に思い余った末に日光の華厳の滝に身を投じた。2ヶ月もしない間に警戒をよそに13回の自殺行為が景勝地で行われたほど「感染」している。世のために成すべき仕事があることを顧みないとブゼルは指摘し、キリスト教青年には当てはまらないという(栗原基編「ブゼル先生伝」p.361-2)。しかし、もう1つの道は、真実を求めて社会科学への関心を寄せて世直しの活動へ参加していった若者たちの生き方である。
②吉野作造の働きと民本主義
吉野は1892年(明治25年)古川尋常小学校を卒業し15歳で仙台市にある宮城尋常中学校(私立東華学校廃校後開校、県立第一高校の前身)へ入学した。ここでは国語学の泰斗として著名な大槻文彦校長の下で薫陶を受け、東華学校の校訓「真理を求め善をなせ」と共に教育環境、伝統が継承されていた。「自由」な校風が高まりをみせていた3年生の秋に、大槻校長が病気のため辞職した。後任の校長は極めて厳格な干渉主義の指導方針で臨んだ。その結果、校長排斥のストライキが全校生徒参加で発生した。尋中5年を卒業後、さらに第二高校の3年間を通して「仙台の地で培養された原型質が、吉野作造のその後の人間形成にふかくかかわっていたことはいうまでもなく、また、この地で結ばれた友人関係が、大正デモクラシー運動の中核となっていったことも見過ごせない」(西田耕三「若き日の吉野作造と仙台」p.38)。1900年(明治33年)9月、東大法科大学政治学科に入学し、先輩の内ヶ崎や栗原、同期の小山らと東北青年が日本の精神文明の原動力になるべく東京生活に入った。専門の学問では小野塚喜平次博士から、人格と思想形成では海老名牧師から大きな影響を受けていった。大学院に進んだ後、工科大学の講師に、1906年から1909年まで清国直隷総督袁世凱の長男克定の家庭教師として中国で過した。帰国後東大法科大学助教授に任ぜられるが、翌1910年3月から1913年7月までの3ヵ年間はドイツ・イギリス・アメリカへ政治史および政治学研究のため留学した。留学中には積極的に街へ出て、事象を肌で感じとる勉強を重ねて、労働・社会・人種・政治の問題に多大な関心を持つことになった。帰国後、『中央公論』誌上発表の論文が注目され講座担当教授へ任官、また『東北教会時報』に「戦争と基督教」(小石川教会の伝道説教要旨)の一文を載せた。宮城県の教育界との結びつきを持ち、教員の研修・研究会で講演をしている。教育者たちへの希望として排外思想を改め、世界に通用する人間、広く世間を見る人間を作ってほしい、そのためには旧来の弊風を脱し、種々の点において実際生活より築き上げた知識の養成をはからねばならないと訴えている。中国や欧米生活の経験からの世界情勢の内容には説得力があったようである。
講演・講習会を通して政治教育に乗り出した吉野が痛感したのは、識者層(中学校長等)の立憲思想に対する理解不足であった。今こそ立憲政治の真義を説くべき時と考えて世に提示したのが民本主義であった。1919年5月の仙台における民本講演会(大学卒業生、学生を中心とする雑誌『我等』の読者による計画)には大山郁夫、長谷川如是閑と吉野作造が参加したが、満員の聴衆が夕方から集まり夜10時近く散会したとのこと。
この状況は第一次世界大戦後の日本の社会背景にあるとみられる。1918年の8月、寺内内閣はロシア革命への干渉戦争に参加するためシベリア出兵を宣言したが、米価高騰に苦しむ民衆は不満・不安感を強め、米騒動が富山県に始まり全国的に広がっていた。
政府はこの動きを抑えるため米騒動に関する一切の記事の掲載禁止を報道機関に通達。
新聞社はこれに対し言論擁護、寺内内閣打倒の大会を開いて対決姿勢を強めた。関西記者大会の模様を伝える『大阪朝日』の記事表現が朝憲紊乱に当たるとして当局は『大阪朝日』を告発し、政府・検察・右翼が一体となって弾圧に乗り出した。右翼の襲撃・暴挙、浪人会による非国民呼ばわりのおどしの中で、社長、編集局長、長谷川社会部長、大山論説委員はじめ主要執筆者が退社。長谷川、大山の手によって『我等』が創刊され、吉野も応援した。民本講演会はこうした背景の下で行われたもので、吉野は自由と平等を尊ぶ民本主義の立場から、当時の朝鮮、中国の問題、さらには社会主義、過激主義について述べたといわれている。日本の抑圧的な朝鮮政策を批判し、独立を志す朝鮮人学生に理解と援助をおしまない、また中国の革命勢力を支持し援助・交流を続けていた。(永澤王恭「吉野作造と宮城のかかわり」p.146-150)。吉野の関心は国内において政治の民主化を進めることと同様に、隣国の国民的独自性にも注がれており、そこにも民本主義が貫かれていたのだろう。
民本主義の学問的根拠には、階級の社会を打破して全人の社会を造るという点にあるといわれる。その意味は、その国家に属する総ての人をして完全にその能力を伸張せしむるということである。民本主義は物質、精神両面に於て国民の生活が維持せられ、発達し得る保障を要求するもので、具体的には 生存権の主張、民政権の要求、能力の発達を可能ならしむる組織の実現の主張をあげている。社会主義または過激派の主義と区別されるものであるとして、社会主義過激思想の欠陥を指摘しつつも、社会組織の欠陥を見出したことについて評価している(講演会記録:河北新報)。
さらに労働問題および普通選挙論を執筆・講演で取り上げ、問題の原因・根本を説きつつ労働運動(賃金労働者、農民)の方向づけをした。選挙権拡張も労働問題解決の同じ基盤にある。婦人参政まで至らぬが、普通選挙制によって選挙界の腐敗を一掃することを主張した。実際、1924年(大正13年)に東大を辞職して朝日新聞社の社員となり内ヶ崎と赤松克麿(労農党と社民党の統一候補)の選挙応援に宮城県入りをした。
吉野の民主主義、自由主義、平等、平和を求める活動は尚絅女学校の学生たちに何らかの影響を与えたであろうと思われる。尚絅が世界に開かれており、アジアに目を開いた交流として、すでに同窓生の佐藤をとみ(郭安那)と佐藤みさを(陶弥麗)姉妹による中国との交流という事実があった。日本における身をかくすような彼女たち家族の生活の支えに、吉野の存在があったことは否定できないだろう。
③栗原基による活動の支え
栗原の存在は吉野のように目立たないが、バイブル・クラスの活動をはじめ、常に基督者としての自覚と信仰に貫かれていたことがわかる。吉野の1年先輩として東大文学部(英文学科)へ入学した後も、本郷教会に属し海老名牧師の下で信仰の道を深められた。大学院卒業後、広島高等師範学校教授として赴任するが、これに先立って結婚されたお相手は大阪マリアで、東京駿台英和女学校付属小学校卒業し尚絅女学会2人目の卒業生である。またエラ・オ・パトリック・ホームへ移転後の最初の卒業生である。卒業後はミス・ブゼルのヘルパー(通訳)として奉仕し女学会で英語と音楽を教えた。上京して女子学院高等科に学び、広島時代には広島女学院で教鞭をとっていた。
10年後栗原は京都市YMCA主事へ転任、3年後(1915年)には第三高等学校教授に就任。厨川白村の後任として小西重直等の推薦があった。聖書研究会を主唱指導し「黎明」を発行、キリスト教と民主主義を基調とした論旨は、大正デモクラシーの先鞭をつけたといわれる。大戦後学生を引率して南洋諸島へ旅行しているが、この学生の中には山本宣冶がおり、凶弾に斃れるまで基先生に私淑していた。18年より三高基督教青年会付属主事宅に寮監として入居し、以後約17年間(昭和9年まで)三高YMCA寮の学生と親しく接した。1920年から1年余り欧米に留学、1930年9月に三高教授を退職(講師で継続・55歳)した。数年来三高を襲ったストライキ事件の思想的攻撃に堪え、孤軍奮闘されたが、嵐の過ぎ去るのを待って潔く退いたとみられる。24年から8年間同志社女子専門学校講師をされたが、教え子の1人は「われキリストを説かず、ねがわくば、キリストを生きん」の言葉を思い出集に寄せられている。ミス・ブゼルの生き方がそのまま基先生の生き方であったと伝えた(宮下千代「栗原基先生の思い出」追悼集p.230-233)。学生たちにとっての支え手であっただけでなく、父親として時代の動きに対しての先達でもあったように思われる。1922,3年ころ学生連合会が結成されていくが、旧制第二高校では社会思想研究会が鈴木安蔵、栗原佑ら20余名で組織されていたようである。鈴木安蔵は後に日本国憲法の草案づくりで活躍されたが、彼と連れ添った妻・俊子は基の長女であり、佑の妹である。彼らが京都大学生のとき・1926年に治安維持法初の検挙事件があり逮捕されるや、寝食を忘れての救援活動をし、力づけがあったこと、学問的業績の基礎は岳父の物心両面にわたる支援なくしては不可能であったといわれる(鈴木安蔵「岳父栗原基をしのぶ」思い出p.95-98)。キリスト教が国家権力の側からは歓迎されない時代に、キリスト教徒となってつねに人々の縁の下の力持ちになることをあたりまえのこととしてなされた。「近代的なヒューマニズム、個人の神との直結という点で、日本の近代化に新鮮な、批判的な思想運動、社会運動を意味した。」
おわりに
栗原基や吉野作造は東京の本郷教会活動を通して新渡戸稲造・安井てつという東京女子大スタッフ、津田梅子らと交流の機会があったと思われる。尚絅女学校とのつながりも、学生間同士だけでなくスタッフレベルでの人的交流・情報交換が有効に働いていたのであろう。資料の収集が未だ不十分であることを踏まえつつ、今後の課題としたい。
《参考文献》
ロバータ・L・スティブンス『根づいた花―メリー・D・ジェッシーと尚絅女学院短期大学』河内愛子訳(キリスト新聞社)2003年
100年史編集委員会編『尚絅女学院100年史』2002年
70年史編集委員会編『尚絅女学院70年史』1962年
西田耕三・宍戸朗大・永澤王恭・せとかつえ・渋谷和邦・橋本尭夫『吉野作造と仙台』(宮城地域史学協議会)1993年
栗原基『ブゼル先生伝』 伝記叢書109(大空社)1992年
栗原基先生記念追悼集刊行会『栗原基先生記念追悼集』(昭森社)1980年
菊沢喜美子『思い出の父 栗原 基』(白羊堂印刷)1969年
むつみのくさり編集委員会『むつみのくさり』(尚絅学院同窓会)2004年
治安維持法国賠同盟宮城県本部『こころざしつつたおれし少女よー高橋とみ子・伊藤千代子を偲ぶつどい』2006年
伊藤千代子の会『伊藤千代子と現代 No.2』2007年
野呂アイ『尚絅女学校同窓生の青春群像―戦時下の生き方をめぐって―高橋とみ子墓前祭つどい』(レジュメ)2007年、他
野呂 アイ(のろ・あい)
1936年 秋田県横手市に生まれる
1960年 東北大学教育学部(教育心理学専攻)卒業
1962年 東北大学大学院教育学研究科修士課程修了
栃木県で高校の教員、東北大学教育学部助手を経て
1970年 尚絅女学院短期大学に勤務
1982年 同短大教授
2003年 尚絅学院大学教授(人間心理学科長)
2007年 同大学定年退職(名誉教授)
現職 社会福祉法人木這子(理事・評議員)
木這子発達心理学研究センター |

伊藤千代子と現代No.4 |