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小林多喜二周辺研究 試論 Ⅰ
「伊勢崎事件資料集」補追
(2008年11月1日)

藤 田 廣 登
(労働図書室副室長・労働者教育協会理事)

 初公開の「多喜二検束場所」―多喜二は写真中央の床柱を背にあぐらをかいて話 をした。右・解説する八田利重実行委員長。三人の女性は歓迎のあいさつをする菊池敏清氏。長女、次女、三女のみなさん。検束当日は右側の襖も取り払って50畳敷の広さで使われたと思われる(2008年9月7日、筆者撮影)

はじめに
 2008年9月7日、群馬県伊勢崎市で開催された「伊勢崎多喜二祭-伊勢崎署占拠・多喜二奪還事件」の成功は、今春各地で開催された「小林多喜二没後75周年記念多喜二祭」の質・量の成功をともにしつつ多喜二顕彰運動の新たな地平を拓くものとなりました。
平山知子氏の「父・邦作といわさきちひろ」、蛎崎澄子氏の「七沢温泉の多喜二から伊勢崎の多喜二へ」の講演はよく準備された豊富な内容で伊勢崎事件の全貌と日本共産党入党直前の1931年9月の多喜二の生きた姿を今日につたえるものとなり、参加者の大きな感銘を呼びました。
当地群馬県下の人たちの間でもこの「事件」を知る人は数少なくなる中で、埋もれかけていた多喜二の事跡を繋いでいく貴重な研究の成果は地元の研究者と在京の研究活動との合流でもたらされたものです。そのことが小林多喜二の史実年譜をさらに豊かなものとすることとなり「多喜二没後75・生誕105周年」という記念すべき年にふさわしい成果の一つであったといえましょう。
 この日を期して現地実行委員会が準備した「伊勢崎署占拠・多喜二奪還事件資料集」(総ぺージ数50)は、この「事件」の研究成果と「事件」について記述されたものを可能な限り集成したものであり、その内容と水準において特記されるものといってよいでしょう。
今後の課題の一つの柱は、そこに紹介された資料内容についてのより精確な分析による統一性ある「事件」の全容の組み立てです。そのための現地での研究の進展を願ってやみません。
 この「試論Ⅰ」は、その一助になればと考え「資料集」に集成されている内容についての補強にかかわる二つの資料紹介を試みるものです。


2008年9月7日、伊勢崎・多喜二祭


伊勢崎署占拠・多喜二奪還事件資料集

 

1 多喜二弾圧の特高課長・泉守紀追跡
 文芸講演会のために伊勢崎入りした小林多喜二らは茂呂村(当時)の菊池敏清宅で総検束された。会場の共栄館に集まった聴衆らに加えて急を聞いて県下から駆けつけた人々の怒りの抗議と一部争闘の中で伊勢崎署長以下全員が署から退去したあと県特高課長泉が警官隊をともなって急派され翌7日未明2時頃、講師等の釈放、検挙者の責任を問わない等の条件で交渉が決着した。多喜二らは夜明けとともに自動車で署から送出され、この事件は一応の決着を見た。
 泉二郎か泉守紀か? この時の県特高課長は菊池邦作氏の発言や記述では泉二郎とされてきた。ところが2008年になって『群馬県史』などでは「泉守紀」とされていることが判明した。

沖縄戦末期の県知事・泉守紀(1898.2.11~1984.10.21 いずみ・しゅき)
 この泉が沖縄戦末期に官選の沖縄県知事として赴任していて、県民の苦難をよそにしばしば上京して席を空け県民の顰蹙(ひんしゅく)を買っていた男であったことは、9月7日の「伊勢崎多喜二祭」会場でスライド上映の折に紹介した。
 しかし、この時点での私の調査は、以前彼の沖縄県知事時代がテレビ放映され、軍の命令に反抗して県民を守ったという「美談」として紹介された新聞記事に対して批判の声があったことの探索にとどまっていて、県知事以前の泉の内務官僚としての警察畑や特高警察歴についてまでは行き届かなかった。
多喜二祭を終えて帰京後、それが柳河瀬精(治安維持法国賠同盟大阪府本部会長、中央本部副会長)氏の著書『告発 戦後の特高官僚』で展開されていることにたどりついた。今般、柳河瀬氏からのご教示も含めてその点について補強しておきたい。

NHK教育・ETV特集「50年目の戦争秘話~決戦前夜の行政官たち・元沖縄県知事の日記より」(「赤旗」1995年9月14日付け)
 このテレビ・ラジオ版の解説者は安仁屋政昭(あにやまさあき 沖縄国際大学教授)氏である。氏の「勇気ある行動・泉守紀知事」と題する評論は、「琉球新報」の野里洋記者が戦中の泉の日記を発掘して『汚名』(1993年講談社刊)と題して発表したものがベースとなっている。その中では泉知事が沖縄守備軍命令と県民を守る立場からの相克が描かれる。そして1995年9月6日の放映では沖縄戦の前夜、軍の官舎役所設備の使用に抵抗し「慰安所」の設置要求などに応じなかったなどの行動が、県民を守る立場からであったとの評価がされている。野里記者の著作には、泉が「国体護持」を至上としていたことや県知事歴任以前に10県近くの警察畑と特高官僚を歴任したことなども記述されているが、そのことは捨象されてしまったため視聴者はこうした泉のダーティーな前半生について予備知識なしにミスリードされたのである。つまり、沖縄戦時代の彼の一断面のみの描写を彼の全人生を貫いたものとして錯覚させてしまうこととなったのである。

 話題を本題に戻そう。柳河瀬氏は、この著書の中で「泉は特高警察が全県に配置された1928年7月10日、大阪府福島警察署長から群馬県特高課長となりました。署長をしていた福島警察署管内は、大阪の労働運動のメッカだったといえる地域で、弾圧を受けた労農党大阪支部、労組事務所、農民組合事務所、労働学校などがあったところです。大阪の3.15弾圧で功ありと認められてのことでしょう。 
群馬県特高課長として、4.16弾圧では21人検挙、うち起訴され有罪とされたもの8名がいます。1930年10月の群馬の共産青年同盟弾圧では検挙者85人、参考人として召喚されたものは300人以上です。
北海道特高課長在任中には、蜂須賀農場争議事件(1932.3.30)、プロ文化連盟旭川事件(1932.4.15)、北海道全協滝川事件(1932.5.15)、学生全協支持団北大事件(1932.6.14)などの弾圧を指揮し、この間の検挙者は158名にのぼります。
 1932年7月奈良県警察部長になったときも、のちには彼より出世する同期の者たちを尻目にかけていました。そのあと、栃木、埼玉、岡山、北海道警察部長です。……こうした経歴と、その出世ぶりは、彼がいかに民衆の抑圧・取締りに熱心な、忠実な官僚であったかを示しています」
柳河瀬氏は、「国民を戦争にかりたてた暗黒支配の最先端にあった内務官僚、しかも特高官僚の事績の一部をとらえて、『勇気ある行動』とほめそやしすぎることは、もう少し注意深さが必要ではなかったか」と指摘している。

 泉守紀は、1928年7月10日、群馬県特高課長として赴任。多喜二らの弾圧鎮撫直後の1931年10月には北海道特高課長として赴任している。1929年の4.16弾圧事件、1930年10月の共産青年同盟機関紙「無産青年」読者網を狙った大弾圧をはじめ群馬県下で彼が特高課長としてどのような辣腕を振るって人民弾圧の先頭に立ったか。その解明は今後の課題として残されている。


「赤旗」1995年9月14日付け

 

2 多喜二奪還応援に前橋から駆けつけたグループについて
 「資料集」17ページの堤源寿氏(戦後、日本共産党群馬県委員長)の記述「不屈ぐんま版3号」にある、事件当日会議最中に「多喜二ら検束の報」を聞いて伊勢崎へ駆けつけた時の事実関係を補強する記述がある。堤氏の記述に寄れば、当日左翼系の「無産団体協議会」が開かれている最中であったとのことで、この会議には堤、福田などの全農全国会議派、文化団体の遠藤一郎、モップルの角田儀平治、全協系の泉や吉田鶴喜らが参加し,会議の2回目の日にまだ皆が集まらないうちに多喜二検束の報がもたらされ、居合わせた者がタクシーを使って伊勢崎へ駆けつけた。
 このことについて富沢実氏は「資料集」23ページ下段で、当時まだ「無産者団体協議会」は発足していなかったので何かの記憶違いではなかったかと指摘されている。

山岸一章『革命と青春』
 この富沢実氏の指摘について直接答えるものではないが、山岸一章『革命と青春』に「群馬の福田政勝―上海事変反戦デモの先頭に」の中で福田が堤氏らとともに多喜二検束の報を聞いてその抗議と奪還のために伊勢崎署へ駆けつけたことが記述されているので紹介しておきたい。山岸の執筆は1960年代後半の「月刊学習」においてである。この時期にすでに山岸が菊池邦作氏らとも会い「伊勢崎多喜二検束事件」について紹介していたのである。
 伊勢崎の共産党組織の推移 今般、「伊勢崎多喜二祭」前後に、多喜二らを招請して「文芸講演会」を準備した中心的メンバーの小林(菊池)邦作、菊池敏清、菊池盛男氏らは当時共産党員であったか、という質問を何人かの方々からいただいた。当時、群馬県下の労働運動、農民運動、無産青年運動が全国有数の規模・内容で大きく高揚しており、菊池氏ら伊勢崎・茂呂の活動家群はこの運動の影響を強く受けて活動していたが、まだ共産党員ではなかった。
 群馬県に最初に日本共産党が組織されるきっかけとなったのは、1923年頃から「桐生社会科学研究会」がつくられ、活版雑誌「無産科学」を発行して活動がはじまり、足尾銅山の労働組合指導に渡辺政之輔や山本懸蔵が来県しており、また、農民運動、無産青年運動の高揚のなかにあり、こうした土台のうえに共産党中央から派遣されたオルグによって朝倉健太郎(桐生合同労組)、岩崎亀一郎(桐生市)、加藤春雄(山田郡境野村)の3人が入党し、1929年1月16日に結成された。しかし、直後の4.16事件で泉特高課長のもとで3人が検挙されたためいったん消滅、再建されたのは多喜二検束事件の翌年の1932年5月である。その中心になったのは泉吉次、福田政勝、堤源寿の3人である。
 福田政勝(1906・明治39年~1933・昭和8) その一人、群馬郡金古村(かねこ村、のち群馬町)出身の福田政勝は、福田赳夫と従兄弟であり、ともに高崎中学(現高崎高校)出身の秀才であったが立身出世を地で行った赳夫とは正反対に学業を捨て労働者となり、多喜二らが来県した当時、九州の炭鉱から引き上げてきたばかりで、実家の土蔵の2階で『資本論』を学習しつつ直ちに農民運動に参加していった。当時、須永好が会長の全農群馬県連は右派の有力県連の一つに数えられていたが、福田政勝、堤源寿、富沢実、平石健夫、田中平太郎、茂木友吉ら中心メンバーによって左派県連として全国でも有数の活動を活発化させるまでに前進していくのである。
 福田は1932年全農全国会議派の全国常任委員に選ばれ、県下の農民運動の指導に東奔西走しつつ、高崎無産者診療所の開設に協力している。同年9月23日、山村農民、木炭製造農民の苦境打開の実力行使を目前に県下の党組織と活動家に一斉弾圧が行なわれ泉が逮捕され、福田、堤、富沢らは上京して難を逃れたが1ヵ月後に検挙された。この時、福田は結核に冒されていて前橋刑務所に収監中重態のため仮保釈となった。菊池邦作が皆から集めた救援金を持って見舞いに駆けつけた時、拷問で脛(すね)の骨を曲げられた傷跡を見せられたという。その直後の多喜二が虐殺された1933年の10月29日、27歳の生涯を閉じた。
 泉吉治(1908・明治41―1931・昭和14)は碓井郡豊岡村(のち高崎市)生まれ。小学校卒業後染物店で働いたあと京都の染色工場に就職、そこで京滋繊維産業労働組合の活動に参加、福田と同時期に群馬における全協オルグとして活動を開始した。彼は桐生社会科学研究会のメンバーたちとも連絡をとり全日本繊維産業労働組合支部を組織している。福田らと協力して1932年農・山村闘争の途上、9月23日の弾圧に遭遇、信田まちらと協力して活動家の秘匿途上で母校高崎北小学校校庭で武装警官50名に包囲され格闘の末検挙され、高崎署で鬼畜のような拷問をうけ、それが原因で1939年9月31歳で死去した。
 堤源寿 堤は国府村(のち群馬町)生まれ。1925(大正14)年19歳で日本農民組合稲荷台支部を組織し、全農県連争議部長となった。この村は当時小作争議の村として呼ばれるほどであった。共産党創立から1941年までの争議件数は1581件に及んだ(「わが地方の日本共産党史」―群馬版)。こうして西毛地区全域から始った革新的農民運動は、勢多郡、佐波郡、伊勢崎方面へと広がっていったのである。こうしてみると多喜二検束当日。前橋から駆けつけた福田、堤らの開いていた会合は農民組合関係のものでなかったかと思われる。
 紹介が長くなったが、ここで山岸一章の「検束事件」についての記述を見ておこう。

 1931〈昭和6〉年9月、高崎の社会民衆党を中心とした文化団体は、プロレタリア文学の作家小林多喜二、同劇作家村山知義など数名を東京から招いて、同市の共栄館で文芸講演会を計画しました。伊勢崎署は開会前に講師全員と主催者の殆どを検束して中止させようとしました。しかし、小林多喜二らの話を聞こうとして集まった超満員の約200名の聴衆は、開会の1時をとっくに過ぎて5時、6時を過ぎても誰一人帰ろうとはせず、次第に殺気立ってきました。そこへ福田政勝、堤源寿、坂内一登司など300名が各地からぞくぞくとかけつけて合流し、約500名が、「講師を奪還しろ!」と伊勢崎署に押し寄せ、数十名の警官をやっつけて、署内に入り込んでしまいました。警察側も動員したがどうにもならず、深夜2時頃までの交渉で、講師は夜が明けたら釈放する、犠牲者は出さない等の条件をかちとり、「伊勢崎署占領事件」として大きく報道されました。(山岸一章『革命と青春』新版)

 堤氏の1993年当時の記憶に基づく執筆内容が、1960年代後半の山岸一章氏の文章と若干の異同があるもののほぼ同様の内容であることがわかる。また、菊池邦作と抗議奪還に駆けつけた福田との心温まる交流も知ることができた。


冊子(8P)

 

 この試論は小林多喜二周辺研究の交流を願って発行する予定です。また、多喜二顕彰活動以外にも伊藤千代子や治安維持法下の先進的活動家の研究・顕彰活動情報も併せて行ないたいと考えています。率直なご意見、ご教示と情報交換をいただければ幸甚です

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